二十数年ぶりに『serial experiments lain』を見返したら、SNS時代の自分が映っていた
コロナ禍で在宅時間が増えた頃、積みアニメを崩すように『serial experiments lain』を再生した。1998年放送の作品である。当時リアルタイムで見ていた世代としては懐かしさ半分だったが、二話を観たあたりから背筋が冷たくなった。作中の「ワイヤー」は今でいうクラウドであり、「サイバー意識」はメタバースの遠い親戚だった。アニメーションの雰囲気は暗いままなのに、そこで語られる言葉は驚くほど今日的である。
玲音がクラスメイトと交わす雑談の中で「記憶は外部に保存できる」と言いかける場面、ナビやGPSを当たり前のように使う現代人の姿がそのまま重なる。二十年以上前のスタッフが描いた未来予測が、通知音ひとつで日常が塗り替わる今の社会と噛み合っている。怖くなったのは、lainの不気味さではなく、自分がもう既にその世界に住んでいると気づいたからだ。ベッドの中でリクライニングしながら観ていたはずが、いつの間にか自分のタイムラインの通知が気になっていた。
ワイヤーと電脳空間という予言
『serial experiments lain』は、秋田書店刊の同名漫画を下敷きに、テレビアニメとして1998年に放送された。当時の家庭にはダイヤルアップ回線が主流で、ISDNが出始めたばかりの時代である。にもかかわらず、物語は「すべての電子機器が繋がるネットワーク」を主人公・岩倉玲音の日常に引き寄せた。作中のWired(ワイヤー)は、現実と区別がつかないほど精緻な仮想空間として描かれている。
SNSが台頭し、LINEやInstagram、X(旧Twitter)が生活インフラとなった現在、私たちは意識するとしないとにかかわらず、いつもネットワークの只中にいる。lainが提示した「現実はひとつではない」という命題は、今やARグラスやAIアシスタントが当たり前に溶け込む世界観と地続きになっている。放送当時、Wiredに没入する玲音の姿は荒唐無稽に映ったはずだが、令和の通勤電車で目を落とす人々の画面を見ていると同じ構図に思える。
アイデンティティの多重化が当たり前の時代
玲音はWired上で複数の人格を操り、時に自分自身がどれが本物か分からなくなる。彼女の苦悩は、アカウントを複数持ち、用途ごとに別の人格を切り替える現代ユーザーのそれと驚くほど似ている。仕事用のアカウント、匿名の趣味アカウント、顔見知りのための本垢——こうした分身の管理に慣れた私たちにとって、「自我の連続性」が揺らぐ感覚は遠いフィクションではない。
特に印象的なのは、玲音が「私」を定義するたびに別の答えを引き出してしまう点である。承認欲求がアルゴリズムに最適化された現代では、他者からの「いいね」やコメントが自己評価を規定する。フォロワー数や再生回数を気にする夜更かしが、lainの中でWiredが人格形成に介入する描写と本質的に同じだと気づく。玲音が鏡を覗き込んで自分の輪郭が揺らぐ瞬間は、今日誰しもが通知欄で体験する確認行為の暗喩だ。プロフィール写真を何度も撮り直す感覚は、すでに玲音が味わった不安の縮小版に過ぎない。
監視社会とフィルターバブルという閉じた輪
『serial experiments lain』には、電波塔や施設がWiredと現実を媒介する装置として繰り返し登場する。それらは時に人を監視し、時に記憶を改変する。2020年代の私たちは、スマートフォンのGPS、音声アシスタント、検索履歴を通じて、より精緻に、より不可視の形でトラッキングされている。違いがあるとすれば、その仕組みが便利という名のもとに積極的に迎え入れられている点である。玲音が抱いた不信感は、今日のプライバシー議論と地続きである。
フィルターバブルやエコーチェンバーといった現象は、lainで描かれたクローズド・サーキュルの隠喩と重なる。似た関心を持つ者同士が固まり、外部の声を遮断する回路は、ある意味で現実とWiredの境界を消す装置だ。玲音が体験した「境界線の崩壊」は、タイムラインの最適化という穏やかな形で私たちの日常にも起きている。考え方が似た誰かとだけ繋がる心地よさは、気づけば視野を狭め、異なる意見に触れる機会を静かに奪っていた。
記憶の外部化とデジタルタトゥー
lainの中で象徴的なのは「記憶」をどう扱うかという問いだ。玲音の父が構築した技術は記憶を外部に移転する可能性を示唆し、それを手にした者たちの倫理が問われる。現代人が写真をクラウドに保存し、思考をメモアプリに書き付ける行為は、まさに記憶を外部化する営みである。便利なはずの仕組みが、自我の一部をネットワークに預け渡す行為だという点は、lainが最も鋭く突いたテーマだった。
問題は、一度ネットワーク上に置いた情報が消えないことだ。デジタルタトゥーと呼ばれるこの現象は、lainが警告した「記録された自我は本人から離れて歩き出す」恐怖そのものだった。炎上や過去の投稿が掘り起こされる経験は、Wiredに自我が浸食される玲音の姿と重なり、どこか滑稽で、どこか救いがない。数年前に何気なく投稿した画像がAIの学習データになり、顔写真が広告に使われる時代、私たちはもうWiredの中継地点に住んでいる。便利さと引き換えに渡しているのは、案外プライバシーだけではない。
改めて問われるテクノロジーの付き合い方
こうして全話を見返すと、lainが描いた未来は未来ではなかったと分かる。むしろ、テクノロジーに対する警鐘は今の方が切実に響く。自我が拡散し、記憶が外部に流れ、監視が便利という衣をまとう——この世界はすでに私たちの足元にある。アニメーションが終盤に差し掛かっても、画面の中で起きている事件と自分のスマホの通知に大差がないことに気づくと、ぞっとする。寝転がってアニメを観ているはずが、いつの間にか自分の生活態度を省みている自分がいる。
それでも私たちはネットワークを手放せない。便利さへの依存は、かつての人間にとっての電気や水道と同質である。重要なのは、lainが示すように、その依存が自我をどう変えるかを意識し続けることだろう。意識するとは、Wiredの中にいながらWiredに呑まれない姿勢を保つことだ。それは難しいが、少なくともアニメが与えてくれる思索の出発点としては十分すぎる。玲音が最後に選ぶ結末は、今を生きる私たちへの静かな問いかけになっている。
何かひとつでも心に残るものがあったなら、続きはmataneteta.com/lifestyleで不定期に綴っている。夜更かしついでに、たまには布団から出ずにだらだら読むのがちょうどいいかもしれない。